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たたら製鉄とは

たたら操業にて生産される玉鋼

 たたら製鉄とは砂鉄と木炭を原料として、粘土製の炉の中で燃焼させることによって鉄を生産する製鉄法です。その技術の源流は、紀元前2000年ごろに西アジアにおいて生まれ、紀元前1200年ごろ、ヨーロッパやアジアなどに技術が拡散したと言われており、少なくとも古墳時代には日本に伝来しました。

 製鉄技術は、日本に伝来したのち、鉄鉱石より砂鉄の方が豊富であったため、次第に砂鉄が使われるようになっていき、日本独自の技術として発展を遂げていきます。

古代は野だたらといって屋外で小規模なたたらを営み、森林資源を取りつくすと他の場所に移動していました。たたら製鉄の炉は中世、近世と歴史を経る中で次第に大型化し、近世では高殿と呼ばれる建物の中で固定して営まれるようになり、地下構造や炉に風を送る天秤ふいごなども大型化し、生産能力は飛躍的に向上しました。

日刀保たたら操業場面

 長い歴史を通じて少しずつ発展してきた鉄づくりの技術は、明治時代(1868~1911)になり西洋から安価な洋鉄が輸入されるようになり、続いて日本国内でも洋式高炉による製鉄が本格化するようになると次第に衰退し、ついに大正12年(1923)、一斉に廃業に追い込まれました。

 終焉を迎えた伝統的なたたら製鉄は、第二次世界大戦時の軍刀生産のため、一時的な復活はあったものの、終戦とともに再度廃止となり、以後長期間にわたって途絶えました。しかし、重要無形文化財としての日本刀の鍛錬技術を保存するためにも、原料であるたたら製鉄でつくられた鋼が必要となり、昭和52年(1977)、日本美術刀剣保存協会により、奥出雲の地で日刀保(にっとうほ)たたらとして復活しました。同時に文化財保護法の「選定保存技術」として選定され、国の保護のもと今日までたたらの炎が守られています。


全国唯一現存する日刀保たたら

日刀保たたら

 たたら製鉄を国の選定保存技術として全国で唯一守り続けているのが、奥出雲の「日刀保たたら」です。日刀保たたらは、日本刀の材料となる良質な玉鋼を供給することを主な目的として、日立金属株式会社の技術支援のもと日本美術刀剣保存協会が運営しています。

 毎年1月下旬から2月上旬にかけて不眠不休の3日間の操業が3回行われ、1回の操業で鉧(けら)と呼ばれる約2.5トンの鉄の塊が生産されています。そして、生産された鉧は破砕して品質ごとに選別され、全国の刀匠に配布されていきます。

たたら製鉄の操業で生産される鉧(けら)

 たたら製鉄の技師長を村下(むらげ)といいます。村下は、準備段階の炉に使う粘土や砂鉄、木炭の品質の選定に始まり、操業中は炉の下部に設けられた穴から火の色を見る事によって炉の中の状態を判断し、送る風の量、砂鉄や木炭を挿入する量やタイミングなどを調整するなど、操業に関するあらゆる工程を指揮しています。たたら製鉄は、村下の知識と経験によって守られてきた技術だったのです。

村下 木原明

 一方、たたら製鉄の鉄が文化財の保存に役立てられるのは、日本刀だけではありません。国宝に指定されている、運慶の作とされる東大寺南大門の金剛力士像の修理にも日刀保たたらの玉鋼が使われています。日刀保たたらは日本の文化を支える重要な存在であることがお分かりいただけることと思います。

 そして、奥出雲町内の小学校を中心に日刀保たたらの協力をいただきながら、奥出雲の小学校を対象とした「たたら体験学習」も実施しています。また、日刀保たたらでは、将来の村下を担う人材を村下養成員として育成しています。先人が守ってきた技術は、絶えることなく次の時代へと伝えられていきます。


鉄穴流しと奥出雲の景観

 たたら製鉄の操業に必要な砂鉄は奥出雲の山々に含まれています。先人たちは砂鉄を採取するため、砂鉄を含んだ山々を営々と切り崩してきました。そして切り崩した土砂を水に流し、下流に設けられた水路の中で、比重の違いを利用して、重い砂鉄を水路の底にため、軽い他の土砂は下流に流すことで、砂鉄を選り分け採取してきました。この技術を、「鉄穴流し(かんなながし)」と言います。

羽内谷鉱山鉄穴流し本場

 鉄穴流しが行われた場所は、自然地形とは異なる特徴を持っています。代表的なものが、棚田の中にぽつりぽつりと見える不思議な小山です。これは「鉄穴残丘(かんなざんきゅう)」といって、鉄穴流しの際に、鎮守の社や墓地などのある大切な場所は削らずに残したため、小山のようになってしまったものです。

鉄穴残丘

 また、削られた跡地は、その多くが現在では棚田になっています。砂鉄を求めた先人たちは、水がない場所では水路を設け遠くの水源から引き、水量が足りない場合はため池を設けて水をためてから、山を削る水として利用しました。鉄穴流しが終わった後、残された水路やため池の存在は、跡地を水田として再生するうえでとても好都合でした。こうしたことから、鉄穴流しの広大な跡地は棚田となり、小山の点在する不思議な棚田景観が形成されていったのです。

福頼の棚田

 現在ではこの棚田で、全国的にも有名なおいしい「仁多米」が生産されています。
 奥出雲の大地には、永きにわたって大規模に行われた鉄づくりの営みの歴史が、深く刻み込まれています。


たたら製鉄と文化

 奥出雲で生産された鉄は牛馬や川舟によって港へ運ばれ、北前船によって全国各地へ送り出され、櫻井家が国友に出荷した鉄は「出雲の鉄は最良」と高く評価され、奥出雲の鉄の名声を高めました。港と奥出雲を結ぶ街道は鉄の輸送によって人の往来が増え、街道筋は大いににぎわうとともに、交易によって多くの富と様々な文化が集まりました。製鉄業で財を成した鉄師たちは、ひときわ大型で上質な自邸や、都で見られるような豪華な茶室や庭園を構え、茶道や俳諧(はいかい)、書画などをたしなみました。

松江藩の鉄師頭取 櫻井家・可部屋集成館

 一方、鉄穴流し跡地で栽培されるソバは、幕府にも献上されるほど高い評価を受けました。ソバは庶民の食べ物でしたが、松平不昧公も大のソバ好きだったと言われ、鉄師の家には不昧公にふるまわれてたという輪島塗の食器も今に伝わり、たたら製鉄によって食文化も育っていきました。

 明治時代になってからも、鉄師の家には、文人画家の田能村直入や与謝野鉄幹・晶子夫妻、後に総理大臣となる近衛文麿など、様々な文化人が訪れています。時代が変わっても鉄師は奥出雲の文化の中心であり続けたのです。

 たたら製鉄は民衆文化にも影響を与えました。奥出雲の竹崎地区や大呂地区では、鉄師卜藏家から、京都の「祇園祭り」の様子を聞き、囃子を模して、山車に乗った稚児が太鼓を叩きながら練り歩く「竹崎十七夜」や「大呂愛宕祭り」を行い、ハレの日を演出して楽しみました。

鉄師 卜藏家の庭園

 また人々は、自然を恐れ敬い、生活空間のそこここに神聖な場を見出してきました。鉄穴流しの際に、神を祀る祠や先祖が眠る墓が存在する場所を削り残してできた鉄穴残丘は、その存在自体が人々の心のありようを伝えていると言えます。

 このようにたたら製鉄は、地域を支えた巨大産業であったという面を超えて、地域の文化を育み、時に人々の心を映す鏡となりながら、特徴的な景観を奥出雲の地に刻んでいったのです。

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